「ゆるキャラ」「アカハラ」「心理的安全性」「てまえどり」「リスキリング」「ヌン活」「ガクチカ」。このような概念は以前からあったのだろうか。ある現象や感覚、物が、名前と紐付きやすくなるときがある。人々が「ゆるキャラかわいいね」と共通言語として、概念を取り扱い始める瞬間がある。以前は個別具体的だった、明確な認識とならなかったような、もしかしたら気にも留めなかったような体験に「アカハラかも」と気付き始める、ラベルを張り始める変化がある。
「ない」が「ある」に変わり始めるときがあるのだ。以前からそこには本当はあったはずだ。ただ、あるまとまった「概念」「事象」として取り扱われてはいなかった。個人で、個別具体の体験としてはそこに「あった」のかもしれない。ただ、他の皆が「何か」を観察、経験したときに「あ、〇〇だ」と明確に同じ意味内容として捉えるような、一般的な概念としては市民権は得られていなかった。まだ「なかった」のである。
社会に「なかった」そのものは、概念的、通念的なものである。物理的な何か、科学的な何か、テクノロジー的な何かが生まれる話とは違う。「新しい本を出版した」「新しい化学元素を発見した」とは少し違う。個別具体としては新しいかもしれないが既に抽象化された概念(「本」)として存在している場合は僕が説明しているような「『ない』が『ある』に」とは違う。また、今まで検知していなかった物理的な具象、生物的なものや物質的なもの(「新しい化学元素」)とも違う。
既に(ある意味では)存在していて認識はしていなかった状態から、多くの人が共通言語として、一括にできる、他のものとは切り離された概念として確立され、それに出会ったときに自分で頭の中でオリジナルに編集しなくても、「あ、〇〇だ」と認識できるようになる、自分の意識上で「存在している」という状態に変わる。この変化が僕が説明している『「ない」を「ある」に』である。
例えば、「ゆるキャラ」という概念。今でこそ一般的に使われる言葉となったが、以前はシンプルに地方自治体や企業が町おこしやプロモーションのために使用していた、マスコットキャラクターだった。もしかしたらサンリオやディズニーなどのマスコットキャラクターと同じ文脈で語られ、それほど特別なものでもなかったのかもしれない。どこかである人が「ご当地キャラならではの、他のマスコットキャラクターとは違う何かを感じる」「どこのご当地キャラもある種の『ゆるさ』『(いい意味での)だささ』『不思議な可愛さ』がある」と気付いたのだ。
他のマスコットキャラクターと線を引ける、ご当地キャラならではの特徴を引っ張り出して、一括にできると思った。個別具体としては存在していたし、より抽象的な概念としては存在していた。でも、マスコットキャラクターの中でも、特有の性質に気付き、「マスコットキャラクター」よりも具体的な概念として、引っ張り出した。編集して、あるまとまった「概念」としてくり抜いた。ラベリング、ネーミングした。そして、その新しいくり抜き方に社会も違和感を覚えず、「確かに、共通項ある、特別なものだよね」と共感し、だんだん市民権を得て、共通言語となり始めた。
例えば、「心理的安全性」という概念、言葉。生まれるまではそこには明確には「なかった」はずである。誰かが個別に感じてはいたかもしれないが、他の概念と明確に区切られて認識されてはいなかったはずだ。そして、ある人が、組織において心理状況パターンがあって、パターンが今の時代で成功するかどうかの一つの大きな要因かもしれない、と気付いた。パターンに対して「もしかしたらこれは大事かもしれない。概念化・抽象化させて普及させよう。組織が沢山の課題を解決できるかもしれない」と気付いた。
もしかしたら最初は少しの違和感、少しの気付きだったかもしれない。そして観察していくと、例えば「あれ、安心して発言できてなさそうだ」「今アイディアをすぐ否定されると、段々アイディアを出す機会がなくなっている傾向がある気がする」「率直な意見は出るけどポジティブなものではなく、愚痴的で他責が多いな」「率直にアイディアを共有して率先して失敗が許させる環境だと人がイキイキとしてて組織としても成長してるかも」とパターンをくり抜き始める。そして「もしかしたら『率直にアイディアが言える』という環境、心理状態が重要なのかも」と考え「心理的安全性」という概念として一括にして確立・普及し始めたのだろう。
『「ない」を「ある」に』というのはこういうことである。他の人々が気付かない、もしくは何となくは感じているけど明確に意識していない経験や事象を、パターン、切り口として一括にする。他の概念とは異なるものとして、切り抜き、名前を付ける。そして、他の人々もその「新しい」概念に共感し、言葉が共通言語として認識・普及し始め、新しい概念として市民権を得る。
単純に気付いて名前を付けるだけで概念として社会的に確立できる訳ではなく、そこには勇気のある発信、分かりやすく共通言語として使いやすいコンパクトな創意工夫がある命名、共感の無さや反論・否定の中でも粘り強く伝え続ける胆力、泥臭い広報活動・啓蒙活動など、様々なハードルがある。でも最初に気付くことができないと、前に進めない。新しい切り口、括り方、切り抜き方、概念の発見には、観察力、共感力、抽象化思考力、情報収集力、編集力など、様々な、深い思考体力が必要とされる。
社会や業界で共通言語となる概念まで昇華させなくとも、仕事を創る企画やプライベートでの面白いことの発見のためには、日々のちょっとした気付き、新しい現象、違和感、“不”への気付きが大事だと思う。気付きの積み重ねが、ちょっとした変化を生み出す、改善のための企画提案や退屈な中の面白さの発見に繋がると思うので、『「ない」を「ある」に』できるよう、日々観察し、日々考え、日々気付きたいと思った。