ロジカルであることとは何か、について考えてみたいと思いました。
前提として、「ロジカル」だけが大事ではないと僕は思います。強いロジカルさは、誰もが持つロジカルさの延長線上にあり、模倣可能のはずです(とどこかで読んで「確かに」と思ったのを覚えています)。僕は数学に関して詳しくはないですが通例通りだとすると、1に1を足したときに、多分誰もが同じ答えになるはずです。普段仕事をしていて「ロジカルって難しいな」って思いますが、前提や事象が複雑なだけで、ロジカルはコピーできてしまうんだなと思います。
そして、物凄いロジカルさにも感動するのですが同時に、ロジカルでないところに、最近感銘を受けます。もし現代アートが分かりやすく分かりにくいものだとすると、美しいし、かっこいいなと感じます。仕事をしていても、(もしかしたら道順はロジカルかもしれないですが、)飛躍したもの、感性的なものに圧倒されます。問題設定、問題解決でも導き方や結論がアートなものはあると思っていて、「それ、どんな発想したら思い付くんだ…」と感じたとき、感動します。何となくで恐縮ですが、ロジカルを超えたもの、説明がつかないもの・分かりにくいもの、整理されていない混沌なもの、感性的なものに魅力を感じます。
と、前提を話したところで、ロジカルとは何か、なぜ大切か、そしてロジカルの向こう側について、書いてみたいです。ロジカルさとは一言で言うと「分かりやすさ」だと解釈しています。「分かりやすさ」と一言で言っても色々な意味があるかもしれないですが、理解ができて、納得しやすい中身、そして説明の仕方がロジカルだと言えます。
ロジカルさを語るときに、2つの軸があります。ある事象、要素それ自体がファクトかどうかと、ある事象、要素から結論を導くときにその筋道が正しいか、の2つの軸です。前者は、例えば科学的に正しかったり、100人見たときに100人が「事実だ」と言ったりされればロジカルで、後者は例えば「AだからB」が科学的に立証されていたり、100人が「AだからBだ」という繋げ方が正しいと思ったりすれば、多分ロジカルと言われるのでしょう。
「ロジカル」という意味だけ考えると、網羅的、体系的、論理的が絶対だというイメージがありますが、必ずしも常にそうではいけない、という訳ではありません。「今、確実に空に雲があって、空に雲があるときに100%で雨が降るというデータがある、だから傘は必ず持っていかないといけない」という事象やファクトの整理、結論までの論理展開を、常時体現する必要はないはずです。
というのも、時間が足りないし、状況はコロコロ変わるし、関連する要素は複雑だし、本当の意味で論理性を追求すること、保つことは現実的に不可能だからです。「空に雲がある」という事象が本当に客観的か、ファクトかを確認するためには、何かしらの科学的な方法で雲と定義される物質を検知できないといけないし、「雲があると絶対に雨が降る」という事象と結果の繋げ方も、科学的根拠が存在しないといけないかもしれません。
そうすると、正確に言うならば「ロジカルっぽさ」が求められます。事実と事実と結論の筋道で網羅的、絶対的に論理性の保証が難しいのであれば、「ファクトっぽいもの」から「正しいっぽい筋道での正しいっぽい結論」を導くしかないです。もし「空に雲がある」と科学的に立証できないなら、それに近いと解釈できる根拠を用意するしかありません。例えば「20人が空に雲があると言っている」のような感じです。「雲があると雨が降るって専門家が言っている」「雲があると大体の雨が降りそう」のような感じです。
「ロジカルさ」は「ロジカルかそうでないか」の二分ではなく、連続的なので、よりロジカルなものはあるはずです。「大体の雨が降りそう」の代わりに「70%の可能性で雨が降りそう」であれば、100%ではなくても、70%という数値それ自体はファクトなので、後者がよりロジカルなはずです。その性質を理解した上で、絶対にロジカルを追求しなくても、よりロジカルっぽいと人が感じれば、それはまず出発点になるはずです。
最初に言った「分かりやすさ」が大事です。「これはファクトです、これはファクトです、これらからこの結論が導き出せます」の論法がクリアであれば、分かりやいはずです。数人の人が見て「なるほど、そういうことか」と説得されれば、それはロジカルなのです。「いや、ファクトとして提示されたものがファクトっぽくないな」「いや、何が結論で何が根拠か分からないな」「いや、根拠と結論が繋がっていないな」と疑念を抱かれるとそれはロジカルでないかもしれません。でも、聞いた人が理解できて、納得できたら、それはロジカルなはずです。
ここから最後に、上記の「ロジカルは、分かりやすさ」という出発点から、「分かりにくいところに価値があるのでは」ということについて考えてみたいと思います。
ロジカルさは、「分かりやすさ」ですが、同時に「分かりやす過ぎるとあまり価値がない」気がするのです。複雑な状況で、新しいことを実行していく、新しいことを創っていくなら、誰もが納得してしまう、誰でも簡単に理解できてしまうものだと、同語反復的ですが、誰でも気付いてしまうので、あまりそこに新しい価値は生まれない気がします。100人いて100人が気付いてしまうものであれば、(思い付くことと実行することの壁はありますが)そこ価値は生まれないはずです。
知的に仕事をすることが価値を生み出すことだとしたら、「AだからAです」と言っても意味はありません。事実とは別に、洞察・示唆(推論・解釈・判断・提案)があって初めて価値になる可能性を秘めていると思います。2月から降水量が下降しているグラフに対して「2月から降水量が下降している」と追記しても、誰でも分かる、単なる記述でしかないのです。100人が分析をして他の99人が同じことを言えてしまうような意見(実質は「意見」ではなく「単なる事実」)は意味がないはずです。
「AだからAです」ではなく「AだからBです」と自分なりの洞察・示唆を加えることはじめて価値が生まれます。100人いたら20人くらいしか気付かないような仮の答えを出してみるのです。ロジカルさで言うと、もしかしたらそこに飛躍はあるかもしれません。結論や筋道が正しいかどうか全く明らかでなく、正しくない可能性もあります。でもその実質的な飛躍、“非ロジカルさ“に価値があり、そしてそれを他者が納得できるようにロジカルに説明して実行まで移す力が、価値を生み出すと思います。
要は、逆説的ですが、ロジカルさが担保できないところに、ロジカルさの可能性を見出す、ロジカルさを示すことが、仕事で大切なことなのでしょう。この観察力、洞察力を鍛えるには、仮説(今はロジカルか分からないけど、おそらく正しくロジカルであろうと思う仮の答え)を立てて検証する、洞察・示唆を加えて検証する、を何度も何度も繰り返して、感性・直観力的なものを伸ばしていくしかないのでしょうね。一般的にリーダーやマネージャーと呼ばれる人が、このロジカルか分からないところに挑戦して結果を出している人たちですし。
「分かりにくい」ことに着目しようとする意識・努力、2割くらいの人しか気付かない隠れた事実、論理を追求する意識・努力、ロジカルっぽくないところにロジカルさを見つけて組み立てる意識・努力、ロジカルさや常識そして矛盾を壊す・超える意識・努力、が大切な気がします。一見ロジカルでないところにロジカルさを見出す力、一見ロジカルでない筋道をロジカルに組み立てる力を培って行こうと思います。
ロジカルさの性質を理解して、ロジカルさを追求して鍛えながら、ロジカルでなさそうなところにロジカルさを見つける・組み立てる感性、直観、仮説思考力、大事ですね。