常識に囚われない、疑う力で、実現したい将来像を導き出す

僕が好きな逸話がある。「NASAが宇宙飛行士を宇宙に最初に送り込むとき、宇宙ではボールペンが使えないと分かった。NASAの優秀な科学者たちは、10年の歳月と120億ドルかけて、無重力でも上下逆にしても、水の中でもどんな表面にでも、氷点下でも摂氏300度でも、書けるボールペンの開発に成功した。一方ロシアは鉛筆を使った」

ハンマーを持てば全ては釘に見える。問題に直面したとき、技術がある人ほど技術に囚われて考えてしまう。使う必要のない技術を使って簡単な問題も難しく解決しようとしてしまう。手段ありきになってしまう。手段の制約やコストありきで思考・会話してしまい、本当に何を達成したいのか忘れてしまう。

課題を見失ってしまうことは誰にでもある。考えてみると不思議である。簡単に言うと「理由も分からず労力や時間を割いて動き始めている」「とりあえず手を動かして作ってはいるが『何のために』手を動かいているかよく分からない」という状態って、変ではないだろうか。「何のために」「なぜ」の説明が先にあって、「何を」「どう」するかが後から付いてくるのが自然な気がする。

ただ人間は論理的に動いていそうだが、意外とそうでもない。「課題は何?」「目的は何?」と聞かれて、上手く説明できなかった経験は誰にでもあると思う。これは人に何かを依頼されたときに「目的や背景を深く理解していない」という話だけではなく、自分が何かを主張したとき、何かの企画・提案をしたときに、why が抜け落ちてしまうことも含まれる。発起人が自分であるときでさえ、その手段が何のために採用されたのか、分かっていない、考え切れていない、忘れてしまっているということはよくある。

社会通念、常識、固定観念、道具、知識、技術、能力、囚われ、分かりやすいもの、目の前のもの、人が言ってること、自分が知っているもの、自分が理解しているもの、人間はそれらに引っ張られてしまう。

社会通念、常識、固定観念などは生活に必要なものである。全てのことに「なぜ?」と根拠や目的を追求していると、生活するエネルギーが足りなくなるはずだ。生活する上で、論理的な筋道を一旦放棄して結論に飛躍する習性は、生きる上での知恵である。

それを理解した上で、「疑う」「本質を問う」という活動を止めてはいけないと思う。課題は何か、目的は何かを常に考え続ける。毎日やらないといけないことで溢れているだ。ノイズが多く、整理しないといけない。捨てる勇気を持ち、残ったものも何が最重要か見極めないといけない。「疑う」「本質を問う」を続けないと、上記のNASAのように、10年の歳月と120億ドルの消費、そして10年の歳月と120億ドルを他の何かに費やせなかった機会の損失になってしまう。手段を無視して「本当に何を求めているのか」を追求すれば、鉛筆、そこに既にあり、とてつもなく安価なもので目的は果たせたはずなのに。

「疑う」「本質を問う」はロジカルに考える、というだけに留まらないし、もしかしたらロジカルとは少し違う種類の発想なのかもしれない。ロジカルは、「ドリルがありますか?」と聞かれたときに、“ドリル“を起点にオプションを出していくのがロジカルのイメージだ。「なぜドリルがほしいんだっけ?求めているのは本当にドリル?」と、目の前に提示された前提、主張や問いそれ自体を疑う。本当の課題や目的を突き止めて、手段は二の次とする。それが、「疑う」「本質を問う」であり、ユニークなものを生み出すため、競争に勝つために必須の思考プロセスだと思う。

最後に、「疑う」「本質を問う」の難しい要素に少し触れたい。全ての活動が「売れる」「お金を使わない」という狙いに最終的に繋がっていないといけないという前提があるとすれば、多くの場合、そこに人が絡んでいるはずだ。どうすれば買ってくれるか、どうすれば多くの商品を買ってくれるか、どうすれば再度買ってくれるか、継続して買ってくれるか、を考える場合、「人が何を求めているか」に注目しないといけない。何か困っていることがあるかもしれないし、もっとよりよい生活にする何かを探しているかもしれない。

難しい点は、人は自分でも何を求めているかよく分かっていない、ということである。誰でも経験はあると思う。例えば歯医者や不動産で「他に何か気になることありますか?」「気にしていることとかありますか?」と聞かれても、別に何も思い付かない。でも後から「え、何で教えてくれなかったの」「あ、これ聞いとけばよかった」と感じること。例えばオンラインショッピングで、「肩こり グッズ」と検索して肩こりを解消する道具を探すのに必死になって購入した後、あるときから手編みを初めて、肩こりは気にならなくなる(もしかしたら求めていたのは、肩こりが気にならなくなる、生活が充実する趣味だったかもしれない)。

賃貸物件に住み始めて(契約時には気にするとは思っていなかったが)天井の高さがだんだん気になり始めた。エッセイで手編みの楽しさがたまたま書いてあり手編みを始めたら、肩こりが気にならなくなり、仕事での焦燥感が消え、通勤時に感じていた億劫さがなくなった。ある手段に囚われて考えていたら、ふとした瞬間に本当に何を求めていたか気付いた。もしかしたらどれだけ時間が経っても、問題と真因、対策と課題の繋がりに自分で気付かないかもしれない。

求めているものは隠れている。本人も気付いていない。「何がほしいですか?」「何に困っていますか?」と聞いても、答えは返ってこない。もしくは本当に求めているもの以外が答えとして返ってくる。iPhoneやフォードと同じである。本人も何を求めているか分かっていないけど、「これはどう?」と提示してみると、「あ、そうそう、これこれ」と反応する。求めてはいなかったけど、求めていたのだ。

人は自分でも何を求めているかよく分かっていない。だからこそ、相手も気付いていない、聞いても答えが返ってこない、でも相手が求めているもの、あるべき姿、理想、コンセプト、課題、目的を追求するのが大事だと思う。「疑う」「本質を問う」ときに、前提や囚われを多角的に批判的に問う、それは相手が自分自身でも分かっていない「実現したい将来像」を見つけることでもあると思う。

常識を疑って、本質を問い続ける、人に聞いても答えが返ってこないようなあるべき姿を構築する。そのような考える力を身に着けたいなと思った。

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