居酒屋でイカ焼きを頼んだ。「居酒屋でイカ焼きなんか食べれるんだ」とワクワクしていた。出汁とソースの味。もちもちの食感。イカの歯ごたえ。長い間食べていない気がしたから、心が高揚していた。
ところがどっこい。店員さんが運んできたものが机の上に置かれ視界に入った時に、驚いた。僕が想像していたイカ焼きと違った。期待で胸がいっぱいだったのに、困惑で心が冷めてしまった。
皆さんは「イカ焼き」と聞くと、どういう料理が頭に思い浮かぶだろう。僕の頭に思い浮かぶのは、お好み焼きのような生地にイカが入っていて、ダシの効きいた小麦粉にソースをかけて食べる粉もん料理である。食感は、もっちりふわふわ。イカの姿焼きではない。ちなみに僕は大阪出身である。
これくらいの認識の齟齬で大きなトラブルになることはない。僕の期待は押し潰されたが、結果的に「へぇ、大阪でいうイカ焼きと東京でいうイカ焼きって違うんだ」と良い学びになったと捉えた。すごく些細な、かわいい出来事である。
しかし、関与している人数の多さや齟齬による損害の大きさによっては、「イカ焼きとは何か?」というシンプルな認識の齟齬も大きな問題になる。「あれ、前に伝えた気がするけどな」「ん、伝えたことと違うことやってるな」「なんでうまく伝わらないんだろう」、こんな悩みは皆さんいつでも抱えているのではないだろうか。僕はいつも悩んでいる。こういう齟齬や悩みは、コミュニケーションと切っても切り離せない。数えてないし、職業等で頻度や程度は変わるかもしれないが、本当に日常茶飯事である。
上記は「認識が合うか、合わないか」の二元論での例だが、程度の問題もある。プロジェクトの目的をどれくらいの意識の強さで認識しているか、割り振られたタスクの重要性をどれくらい解像度で自分ごととできているか、そういう程度の問題も大きく関わって食らう。
何かに対して共通の認識を持ちたい。例えば、「イカ焼きとは何か」という解に対しての認識を、話しかけている相手と一緒にしてしまいたい。例えば、会社のバリューが何か、それはどういう行動指針となるかについて、プレゼンテーションを聞いている社員と一緒にしてしてしまいたい。例えば、何かを教えている時にその教えている対象がなぜ大切かについて、教育を受講している人と認識を合わせてしまいたい。
認識合わせはハード
これほど難しいことはない。今日はこの認識合わせについて、具体的には、認識を合わせたいときや理解を促したい時の具体的な1つのアプローチについて話してみたいと思う。
早く要点に入れよという感じで申し訳ないが、その具体的なアプローチについて話す前に、まず、要点の構成要素の2つの前提について触れておきたい。まず、「伝えても伝わらない」ということである。
僕も含めて、コミュニケーションに関して蔓延してそうだなと思うのだが、「伝えれば伝わる」と思っている人が多い気がする。僕も「結構伝わっているな」と思い込んで失敗して、「基本的に伝わらないぞ」という前提を自分に言い聞かせて、時間が経って気付いたらその意識が弱くなっていて、「いや、これくらいこんな感じで伝わるでしょ」って思い込んで全然伝わっていないことに気付き、また反省して意識し直す、その繰り返しである。
基本的に、伝わらないと思っておいた方がいい。どういう状況・目的かによって思考の指針を臨機応変に組み立てればよいと思うが、コミュニケーションに関しては基本的に性悪説でよいと思う。それは、自分のコミュニケーション能力と相手の理解力(もしくは理解しようとする意欲・姿勢)について上手く機能していない、と考えていていい、という意味だ。どれだけ上手く伝えても、相手が聞く気がなかったり耳栓をしていたりすると伝わらない。まず「伝えても伝わらない」と考えていいと思う。
もう1つの前提は、先程も少し話したが、「伝わっている・伝わっていないの二元論ではない」ということである。相手の理解は、「あ、わかった!」みたいな明確なしきい値がある訳ではなく(まあ、もしかしたらそういう感覚があるかもしれないが、それが自分の認識と一致しているとは限らず)、認識というのはスペクトル状になっているのである、と思う。
例えば、自分の理解が1だとする。そして、例えば、相手の理解も自分のそれと一致させよう、もしくは近似させようとして、対話するなりプレゼンテーションするなり、1を目指してコミュニケーションを取ってみた。そして、相手に「わかった?」とか「これはどう?」とか質問してみて、「あ、認識あってそうだな」と結論づけた。そして、蓋をあけてみると、1には到達しておらず、0.4とかだった。途中までは円滑に進んでいると思ったが、ある時に違和感を覚えはじめて、もう少し確認をしてみると、1には0.6足りなかった。自分の認識を100%一致させるのは難しいと理解していたけど、仕事を進めるにあたって、0.6くらいは持っていないと「認識齟齬」となり、失敗に繋がる全体像だった。理解や認識は、ある壁を越えたら「伝わった」と明確に言えるような概念ではなく、スペクトル状になっている。
認識合わせへのアプローチを話す前にこの2つの前提をおさえておきたかった。「伝えても伝わらない」と「伝わっている・伝わっていないの二元論ではない」という2つである。さて、本題に入る。
不正解が何かを理解する
認識を合わせたい時の一般的なアプローチとして、正解を狙いに行く、というものがある。「Aは〇〇だ」「〇〇という行動はAが象徴するものである」という肯定的なものである。「イカ焼きとは、イカを丸ごと使用して甘しょっぱい醤油味をつけて焼いた日本の料理である」みたいな、ターゲットを直接的に狙うものである。ただ、これには不安定な部分というか、デメリットもある。
そこで大事なのが、不正解が何かを理解する、というものである。
相手が言語化できていない何かを掘り当てる時、ある事象に対して認識を合わせたい時、何かを相手に理解してもらいたい時、そういう時に意図的に間違えるのだ。そして、何が不正解なのか、把握する。ターゲットを直接的に狙いに行くのではなく、「Aは〇〇でない」「〇〇という行動はAに反する」という否定を固めておく。正解と不正解の境界線を明確にしておく。不正解は何かを浮き彫りにしておく。そういう選択肢も非常に重要なのだと思う。
(相手がうんざりしてしまう可能性があるが理論的には)なるべく早い段階で不正解を出しまくることで、「△△は、Aではない」という領域を固めていって、「何が正解か」が枠取りしやすくなるはずだ。間違っていることを明確に聞き出す、不正解を壁打ちして正解に近づく、そういうアプローチが重要だ。
正解を狙うことについて危険なことがあると思っている。それは、粒度広めにとっておいて何となくいい感じの正解を狙いにいって、「こうですよね?」って聞いた時に「はい、そうです」という答えが返ってきて、認識が一致していると認識してしまうことである。相手に理解してもらえていると認識してしまう。これが非常に後にに認識がずれている、となるのは危険だ。
「曖昧な状態で相互で認識が合致している(ような気がする)」結構危ない状態になる。幾つか例を出してみたい。
曖昧になりやすい
例えば、業務フローを整理したく、ある関与している2社に対してヒアリングをしている時に、「最終的な確認作業はA社が行いますか?」と聞く。そうすると、関与しているもう1社のB社が最終的な確認作業をやっているのかどうかが、わからなくなる。A or Bなのか、A and Bなのかが曖昧なのだ。そこで、「最終的な確認作業はB社は行いませんか?」と聞けば、これに関しては明確になり、A, not Bか、B, not Aか、A and Bか、が問いに対する解がより明確になるはずだ。
もう1つ例を提示したい。例えば、「プロジェクトの進捗ってどう?」って聞いたとする。(聞き手の意図にもよるかもしれないが)この聞き方だと、0%より大きければ、100%までの幅すべてに対して、「順調に進んでます」と回答できてしまうし、(理解の認識を合わせにいくという相手の誠実さなどは置いておいて、聞き手の意図がわからずに、もし単純に質問に回答してしまうと)それで間違いではない。「(30%進んでいて)順調」なのか、「(50%進んでいて)順調」なのか、「(80%進んでいて)順調」なのか、「順調」に対する定義の認識が異なるため、結果的にプロジェクトの認識も大幅に異なってしまう。肯定否定の観点とは少し異なるかもしれないが、原理は同じである。
最後にもう1つ。「目的はブランド認知向上ですか?」とオープンに正解を狙いにいって問いを立ててしまうとすると、「(他にもあるけど、ブランド認知向上も含まれるから、とりあえず)ブランド認知向上です」なのか、「(ブランド認知向上は大して重要じゃないけど、まあ別に間違っているとも言えないし否定するのも面倒だから)ブランド認知向上です」なのか、「(基本的にブランド認知向上が目的なので)ブランド認知向上です」なのか、「目的は、ブランド認知向上である」という回答に幾つもの曖昧性が含まれる。本当に聞き出したいことを考え抜いて、具体的にはどのような奥行きがあるか、を考えてみる。そうしないと、曖昧なまま話が進んでしまう。
つまり、「ブランド認知向上ですか?」だけの質問だと「はい、そうです」と返ってきた時に、認識が合わない。認識が微妙に部分的に重なっている、とは言えるが、バチッとターゲットに矢が刺さっていると言えるほど明確に認識が合っている、とは言えない。ここで明確に消去法的に不正解を消していくために、「集客ではないのですね」とか「ブランド認知向上のみが目的なのですね」と聞いてしまうことで、境界線がよりはっきりする。
意外と理解できていない
恐いのは、「いやいや、そんなの聞かなくても考えたらわかるでしょ」と相手に思われるからそれを怖がってしまい、確認を怠ってしまうことだ。(そもそも曖昧だと気付けていない場合もあるが)曖昧な場合は、不正解をまず排除してしまうといい。(もし、相手に「そんなの当たり前でしょ」と思われるのが少し心配であれば、枕詞を用意して「すみません、認識ずれていると恐いので念の為に整理のために聞くだけなんですが」みたいに聞いてしまえば、問題ない。)
相手に頼りすぎない、相手に伝わらないという前提で話す、というのが大切である。オープンに質問されて的確に答えられるほど、相手が成熟している、誠実である、とも限らない。ふわっと、保険をかけて、広範囲で正解を狙いにいくより、「△△ではない」「〇〇しかない」と限定してあげる。そうすることで、より精度の高い正解を出せると思うのだ。
だから、例えば具体的には、業務フローを策定しているのであれば、1回勝手にフローを叩き台として作ってしまって、「あ、ここ違います」「いいえ、そこはこういうフローが正しいです」と、間違いを指摘してもらうことで、より正解に近づくことができる。
少し付け加えると、認識が合わなくなるのは、(そもそも実情はよくわかっていないのに)理解している、と勘違いしたままコミュニケーションすることだと思う。そして、話し手と聞き手で言葉の意味の捉え方が異なることが原因であることが多々ではないだろうか。本当に一例でしかないが、「確認」「管理」「戦略」みたいな意味の広い一般的な言葉があり、それら自体が抽象的で曖昧で、結果的に話し手と聞き手で「正解だ」と思って掴んでいる意味の部分が異なる場合もある。もしくは、発話者もしくは聞き手が勝手に自分の常識なり知識なりで意味を頭で補完して(それを客観視できる状態にして出さずに)何が正しいかの認識のずれが発生する。つまり、言葉の意味に関しての「不正解」を浮き彫りにして、境界線を引くのが大切なのだ。
不正解が救い
バイアスがかかった状態、認識がゆるゆるした状態から脱却できるのが、不正解、だと思っている。
問題集とかの、「誤りを見つけなさい」というのも、同じような原理で対象への理解を深めるためのトレーニングの一種だと思う。正解へをより早く導く為に、不正解を理解するのである。先程少し書いたが、勿論聞き手との関係性によっては、見当違いな間違いをし続けると不快な思いをさせてしまう場合もある。だから、適切な問いを設定する能力は必要だし、初めからより正解に近い正解を出す仮説思考力も必要だし、瞬時に問いを言語化する能力も必要だ。
しかし、いい感じっぽい事・意味範囲が広く色んな事に正解となってしまうような聞き方をしてしまったり、相手に「そんなの当たり前でしょ」と思われるのが怖くて聞かなかったりするのは、かなり危険である。だから、その危険に背を向けて後で認識齟齬に気付いて転けるよりも、その危険を回避するために意図的に「はずす」選択肢は、非常に重要だと思う。
どうだろうか。僕が伝えようとしているイメージは伝わっただろうか。(コミュニケーションにおいては性悪説である方がいいと書いたので、この場合も)僕の表現力不足等もあり伝わったとは信じていない。または、「伝わる」みたいな明確な状態ではなく、認識が合う方向へ、例えば20%とか30%くらい少し動いたかもしれない。
日々、抽象的な概念に対峙しないといけないことがあると思う。繰り返しになるが、すごく曖昧で複雑な言葉は日常に溢れている。例えば、組織が人々が同じ方向へ向かっていくために企てるような行動指針や存在意義も、気を付けないと、認識がチグハグになってしまう。それほど大事な概念でも、局所的には認識はあっているけど、核心は突けていない、微妙にずれている、って本当の本当に日常茶飯事なのだ。「未来を共に共創する」「お客様に価値を届ける」「仲間をリスペクトしてチームワークを発揮する」、これらは全て抽象的で曖昧で意味が広すぎるのである。
そういうものに出会ったら「不正解はなんだろう」と是非考えてみてほしい。「お客様に価値を届けてない状態ってどういう行動をしてそう?どういう思考になってそう?」みたいに、否定形で問いを立ててみてほしい。不正解を狙って、不正解の認識の幅を狭めて、正解の正しい型を取っていってほしい。遠回りに聞こえるかもしれないが、こういう風に不正解から外堀を埋めていくと、より効果的に、より精度高く、正解を導き出せると思う。
ぜひ、不正解を愛してほしい。
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