「プロフェッショナル」って何なんだろうか。

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プロフェッショナルを取り上げるドキュメンタリー番組で、サッカー選手の本田圭佑さんが「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と質問をされていた。「(僕にとってプロフェッショナルとは、)ケイスケホンダ」、本田圭佑さんの回答はこれだった。どういう意味か全くわからないが、どういう意図かというと、「ケイスケホンダ」を「プロフェッショナル」と同義にしたい、ということだそう。「あなたケイスケホンダだね」が、「あなたプロフェッショナルだね」みたいな意味で自然と使われるようにしていきたいと。

要は、じゃあ何がプロフェッショナルなのかは、全く説明していない、中身のない、自分勝手な回答な訳だ。「プロフェッショナルは、ジブラルタル海峡です」「プロフェッショナルは、ナーショルロープーです」と言っているのと何も変わらない。(本田圭佑さんが好きな方がいたら、ごめんなさい。ディスってる訳ではなく。)

でも、気概がさすが本田圭佑さん。スケールが違い過ぎる。こんなこと誰も思いつかない。でも、プロフェッショナルが何かは全くわからない。だいたいの人が、できるなら、プロフェッショナルになりたいって考えていると思う。だから、プロフェッショナルが何かを考えてみたい。

本題に入る前に(本題に入る前にああだこうだ横道に逸れるのが大好きで本題に入らずに終えてしまってもいいと思っている人間なのだが)、なぜ僕がプロフェッショナルとは何かについて考えるに至ったかを、フィクションも交えながら話していく。

紙の上にボールペンのインクで書かれたタスクに、取り消し線をシャッと引いている時に、「あ」って降ってきたのだ。「あれ?」って。何で僕この仕事してるんだろう、って。もしくは、何でこの仕事以外の仕事をしてないんだろうって。消込管理をしていた訳だ。目の前にあるタスクに取り消し線を引いて、新しいタスクを追加して、またそのタスク進めて、取り消し線を引いて…その繰り返しだった。まあそういう仕事のやり方で評価をされるところもあるのだろうけれど、退屈ではあった。退屈ではあるし、もっと自分できるんじゃないか、お給料に見合った仕事が出来ていないんじゃないか、そんなことをぐるぐるぐるぐる考え始める訳だ。

テレビやメディアの対象になりやすい人達のことを考え始めた。例えば、エヴァンゲリオンの監督・脚本・企画などを務めた庵野秀明さん。彼のドキュメンタリーを見たが、「漫然」の反対側にいるような印象だった。「漫然」って、明確な目的や意識を持たずにぼんやりとしている様だと思うが、彼は使命に駆られて、妥協せず、目に炎が燃えたぎっている印象だった。例えば、僕が好きなラッパーの1人にJ. Coleという人がいるのだが、彼のドキュメンタリービデオでも、彼はタスク管理している訳ではなかった。制作意欲に駆られ、1番創造的で1番技術レベルが高く1番メッセージが伝えられる、そんな言葉と音楽を生み出そうと、コンピューターやノートと睨み合いをしていた。

この極度の集中状態、意欲や使命で満たされた精神状態、これは、漫然と仕事をしている状態の対極だと思った。勿論、漫然をすることが必ずしも悪い訳ではないと思う。そういう状態が必要な時もあると思う。そういう実行の仕方が適した仕事も存在すると思う。でも、紙の上のタスクを消し込んでいる時の「あ」という感覚は、何か自分の今の意識や状態に満足のいっていないような、そんな感じがした。

そこで、庵野秀明やJ. Coleがどういう名詞で形容できるか考えてみると、「プロフェッショナル」だった。

ここからが本題なのだが、「プロフェッショナルとは何か?プロフェッショナルの構成要素・条件はどのようなものか?プロフェッショナルであることをより具体的な状態で示すとどのようになるか?」、そんなことを考えてみようと思った。皆さんは、プロフェッショナルってどういう意味だと考えているだろうか。言葉に対して、どういうイメージを持っているだろうか。

まあ、いろんな横文字の言葉のように、例に漏れず、複数個の条件があるようだった。顧客利益を最優先に追求している、とか、約束を破らずに信頼される人材である、とか、抜群の専門知識を駆使する、とか、期待以上のアウトプットを生産する、とか。一方が他方の言い換えで、切り口を変えているだけで同じことを言っているようにも見えるが、一つ、この切り口は仕事でも私生活でも、明確に重要なのではないか、と思うものがあった。

それが、自己成長の追求である。

顧客利益を最優先に追求している、にしても、抜群の専門知識を駆使する、にして、言わずもがなだが、そこには自分がまずいる訳だ。当たり前過ぎることですが、プロフェッショナルの構成要素の一つには、自己、というものがある訳だ。そして、この自己の取り扱い方が派生して「顧客利益の追求」「専門知識の最大活用」となるのだと思う。

漫然と仕事をしている状態というのは、いやもっと正確に言うと、漫然と仕事ができている状態というのは、何も変化が起きていないはず。勿論、客観世界では物事は変化しているかもしれない。例えば、メールを送ったら、メールが「未送信」から「送信完了」という状態に変化している訳だ。しかし、例えば、全く同じメールの対応をした時に、前回と質も速度も変わらずにメールを返信したとすると、自己の変化は皆無な訳だ。同じ品質や同じ納期、同じコストで何かを生産して提供することは非常に重要な資質である。だが、恐らく周りの物事や世界はすごいスピードで変化をしてる。予測できない社会構造の変化が起きている。時間の流れが速く感じることもあるかもしれない。そんな時に、自己の成長を求めずに、漫然と仕事をこなしていると、追いつけなくなって負けそうな気がしないだろうか。自己に変化がないままに仕事を進めていると、退屈な気がしないだろうか。僕は、そういう風に思った。

何のために自己成長を追求するの、と訊かれたら、もしかしたら職を失くさないためかもしれないし、生活水準を上げるためかもしれないですし、何か達成したい・取り組みたいことがあってそのためには成長が必要かもしれないし、誰かを勇気づけて鼓舞するためかもしれないし、究極のクリエイティブィティの追求かもしれないし、自己の成長や変化っていろんな目的があると思う。じゃあ、プロフェッショナルの大事な要素が自己成長の追求だとして、プロフェッショナルが全員自己成長の追求を常に行っているとしたら、プロフェッショナルの人たちは何のために自己成長を追求しているのだろうか。

一つの考え方として、彼らが自己成長を追求している目的は、自己成長の追求それ自体でないだろうか。

勿論、自己成長の追求をして、結果的に先程あげた何かを達成できるかもしれない。顧客利益の追求とか、専門知識の最大活用とか。しかし、人間には自己成長を追求するという根源的な欲求がある気がしてならない。なぜ世界で速く1番速く走りたいのか、なぜ世界で1番高い山に登りたいのか、なぜ世界で1番クリエイティブな楽曲を作りたいのか。そこには、単純な自己を超えたいという欲求が存在している気がする。

成長ってしんどい。努力ってしんどい。練習という同じことの繰り返し、結果が生まれない日々、勝負に負けて水泡に帰す汗と涙、体力・精神・時間を蝕む鍛錬、すべてしんどい。心がしんどくなる。辛い。やめたくなる。それでも勝ちたいと思う。それでも自分に負けたくないと思う。それでも昨日より成長したいと思う。

何が好きかって領域は人によって違うし、成長の方向や程度も違うかもしれない。しんどくて、成長という方向を止めてしまいたい精神状態になりたいこともある。

それでも、奥に秘めているのは、自己成長の追求なんじゃないか、そんな風に思う。

最初の問いに改めて戻ると、プロフェッショナルであるために一つの重要(もしかしたら最重要)の条件は、自己成長の追求だと思った。多分、これだけじゃない。程度の話もある。でも、自己成長を追求していないプロフェッショナルはいないんじゃないかと思う。僕はプロフェッショナルになれてるだろうか、そんな風によく考える。どんな領域でもいい。壁の向こう側で、プロフェッショナルと同じ精神空間にいたいなって思う。

とりあえず、僕が自己成長を追求したい領域は、言葉・文章な気がする。何がしたいんだろう、どういう技術で成長したいんだろう、って人生のいろんな所で考えて、飽き性ながらいろんな所で考えたが、なんとなく、やっと見つかってよかった。

自己成長を追求している人は強い。輝いている。そんな風によく思う。僕も、その仲間になれるように、自己成長を追求してみたいな、なんて思う。

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